ねぇ、私はここよ 01


銀ちゃん、

そのソプラノの声の主は、幾度か銀髪教師の名前を呼ぶと彼の背後から首に腕を回した。
白く細い腕が眼下にくると同時に、鼻腔をほんのりと甘い匂いが擽った。
(この細い腕で彼女は軽々と教卓や机を持ち上げ、蜂蜜色の頭をした彼と喧嘩するなどと 誰が想像しよう)

「ちょ、神楽サン?退いてくれます? 今、採点してるんですけどね?」

肩に乗っかっている重みを懐かしいと思いつつも、男は・・・銀八は視線を目先の 紙から離さずに腕をどかそうとすると、意外にも彼女はそれをすんなりと受け入れた。
重みの消えた肩が寂しいと思う、ほどに。
そんな思いを何処か打ち消すように教師は、 暫く紙の擦れる音と、ボールペンの走る音だけを響かせていた。
やがて二つあった紙束のうち、片方が無くなると銀八はふぅと一息つき、 動かし続けていた手を止めペンを置きくと、首だけを彼女の方へ向ける。
「神楽ァ」と気だるげに呼びかけた先には、くるくると (そこに何の意味があるかは測りかねるが)スカートの裾を翻しては回っている彼女。
あぁ、何だっけ。
"神楽"って神様に捧げる舞踊かなんかだっけ。
不意に思い出したのは彼女の名前の意味。
硝子越しに差し込む夕日が彼女の肌や眼や髪を幻想的なものに染め、 小さな顔の両脇に垂れた桃色が舞う。


「何アル?」
「何で国語準備室(ここ)に来てんの。沖田くんと帰るんじゃなかったっけ?」


ピタッと彼女の足が止まり。蒼色の瞳と視線が絡まる。
「帰るヨ?」と答えを返した神楽は不自然に眼を逸らすと、ふんわりと笑おうとした。
ギィと軋んだ音をさせながら、銀八は椅子ごと神楽の方へ向ける。
また一度「神楽」と呼ぶより前に、彼女の方が早く口を開いた。


「沖田が・・・・沖田が用があるからって言って、だから、ここで待ってるアル」
「・・・それを、沖田くんは知ってんの?」


―――――答えなんてはじめから判ってた。
そんなこと、口には出さないけれど。
神楽は首を横に振る。
そして、顔を歪ませた彼女にもう一度名前を呼ぶと、今度は遮られることはなかった。
久しぶりに見る、八の字になった桃色の眉に銀八の腕は自然と、彼女に向かいのばされる。
懐に飛び込んできたのは温かさであり、肩に伝ってきたのは熱いものだった。
そして、同時に。
なんと小さい、と思ったのも事実だ。


「銀ちゃん」
「うん」
「銀ちゃん、私は、ひどい、アルか?」
「・・・なんで?」
「私はアイツを試してるアル」
「試す?」
「アイツの言ってた"用"って、"告白されること"アル。
見ちゃったネ。なんかもう・・・分かんないアル」


もとより皺だらけの白衣(と呼ぶには若干薄汚れていたが)は彼女の小さな掌が握る ことでさらにそれを深くした。
――――正直、彼らの待ち合わせ場所に此処を使われるのは良い気持ちのするものでは なかった。
更に、嗚咽だらけの小さな小さな声を、それでも聞き取ろうとするのは教師の立場 である以上、に。

「―――、」

ふと感じたドア越しの気配に銀八はひとつ息をつく。
それに対し、ビクリと肩を震わした彼女の頭を二、三度軽く撫でる。
思ったよりも早かった"彼"の登場に神楽はまだ気づいていないようだ。
赤子をあやすように、今度は背中を撫で始めるとやがて落ち着いてきたらしい彼女のこの 嫉妬にも似た情を、彼はどう受け止めるんだろうか。

お手並み拝見といこうか。


「なぁ、神楽? じゃあ今日は俺と一緒に帰ろうか?」
「ほぇ?」

神楽の耳元に寄せた唇が放つ音は、内緒話をするにはやや大きく、第三者が聞き取るには やや小さい。
それくらいの微妙な音を、それでも。


「神楽ァァァァァアアッ!!」


囁くような誘いと同時に、勢い良くドアが開けられたのはほぼ同時と言っても良かった。
おおよそ、銀八に圧し掛かるような体制の彼女に沖田は一瞬ばかり動きを止めると、 しかしすぐさま部屋の中へと侵入し彼女の手首を掴む。
支えていた体重が僅かに減り、椅子がまたも軋んだ音を溢す。
「いたっ」と眉を寄せたまま連れ出されようとする神楽に、銀八はひらひらと手を振り 見送った。
「さようなら」も「また明日」も聞かれないまま、ゴムの地を蹴る音は遠くに。
ドアの開け放れたまま一気に静かになった部屋の真ん中で銀八は頭をがしがしと掻くと 再び仕事に専念することに気を集中させ始めた。

彼女に調子を崩されるのはいつものことだ。
対生徒として接していてこうなのだ。
私的関係なら更にだろうか。

それはそれで見てみたいものだ。
なぁ、沖田くん。
――――早くしないと、貰っていっちゃうよ?


ひとり口許に浮かべる笑みは、夕日に照らされて。




yuriaさんに捧ぐ。

モドル